クリーンという言葉の違和感

アンチドーピングの話。
ここしばらく反芻するように毎日このことを考えています。

ただ、やたらと「クリーン」という言葉が連発されるのを見ながら何か違和感を感じていたのも事実です。

その多くの場合が、ここ最近のEPOによるドーピング・スキャンダルがあまりに酷く、そのことだけを捕らえた近視眼的なもので、昔は健全だったかのように語られてしまっているように感じます。

ドーピングは遡ればそれこそ古代オリンピックの頃から「抜きん出るための手段」として存在していて(※)、自転車レースにおいてはグランツールの過酷さからありとあらやる手段がその時代時代に存在してきました(かつては興奮剤的なものが主流だったようです)。
「クリーン」というのは戻る場所ではなく、これから目指すところということをしっかり頭に焼き付けておいて欲しい、ということです。WADAが設立されたのが1999年、ここ10年と少しかけて「フェア」であるための「クリーン」の将来的なビジョンがようやく見つかったところです。

かつての名選手が失敗の象徴になるというのは残念でしかないのですが、そこから学ばないと先へは進めないと思います。

(この項、長くなるのでまた後日。)

※ドーピングの歴史的なことは下記を参照させていただきました。

ドーピング禁止物質・規制薬物分析サービス:基礎知識:ドーピング概説 | 公益財団法人 日本分析センター